お返し

真冬よりだいぶ寒さも和らいできた、三月十四日。
青島は上機嫌で、スーパーの袋を両手に官舎に向かっていた。
両手に持った袋はパンパンで、缶ビールや日本酒の瓶も透けて見えると言うのに、青島は全く重さを感じていないような軽い足取りで歩いていた。
「今日はサービスしなくっちゃね〜♪」
そう呟きながらニマニマとほくそ笑んで。
今日は三月十四日。
身もふたもなく言ってしまえば、日本の女性が、一ヶ月前のつけを数(十)倍にして払ってもらう日。
原価が数百円(手作りの場合はそれ以下)のチョコレートが、高価なお菓子、または小物やアクセサリーに化けて帰ってくる日、ホワイトデーだった。
もちろん青島も例外なくその慣例に従わされ、雪乃とすみれと交通課の女性たちに、デパ地下のバームクーヘンとキャンディーをプレゼントする羽目になったのだが。
財布の中身の悲惨さにもかかわらず、青島の気分はとても爽快だった。
理由は聞くまでもないだろう、一ヶ月前にもらえた『本命チョコ』のおかげであった。
今からきっかり一ヵ月後、バレンタインデーに、青島は室井からバレンタインチョコをもらっていたのだ。
青島はもちろん室井も男で、たとえ恋人同士といえる関係であったとしてもバレンタインデーにチョコをもらうなんて事ができるはずないと青島は思っていた。大の男にバレンタインチョコを持ってレジに並ばせるなんて、罰ゲーム以外の何物でもないとちゃんと分かっていたし。
だからこそ、あえてバレンタインの話題を上げる事もせず、会える日がたまたまバレンタインであっても決してそれを意識しないようにと心がけていた青島を、いいかげん神様とやらが同情でもしてくれたのか。
『…青島、これ………』
なるべく平静を装いつつ、そして決して視線を合わせずに、室井は青島にチョコを手渡してくれたのだった。
どこかのコンビニで買ったものだろう、青島も見たことがあるパッケージの小さな箱。
それでも、たとえコンビニで買ったものであろうとも、室井がくれたという事実が青島には物凄く嬉しかった。正直もらえるとは思っていなかっただけに、思わず箱を受け取るのも忘れて、室井の体を力いっぱい抱き締めてしまったほどに。
思い出す度に笑みが浮かんでくる、一ヶ月前の幸せ。
それにきっちりとお返しをするべく、今日の青島は食材をたっぷりと買い込んで来たのだった。
ちなみにバレンタインには真下もチョコをもらえたらしい。それを報告された時、最初それが信じられなくて『見栄はらなくていいぞ?』と言ってマジ切れされた。
まさかあの新城からチョコをもらえるなんて信じられない青島が詳しく聞いてみると、数週間前からねだりにねだって勝ち得た幸せで、しかももらったのは板チョコだそうで、まるで手作りチョコでももらったかのような喜び方に青島は少しだけ真下を哀れに思ってしまったのだが、それがばれたらまた怒られるとさすがに分かったので何も言わなかった。
今日は向こうも気合を入れていることだろうと思いながら、ゆっくりと官舎に向かって歩く。室井が帰ってくるのはまだ先だとメールで確認してあるので、急ぐ必要はない。
今日は青島がご飯を作って、美味しい酒と一緒に食べて、室井にゆっくりしてもらうのだ。もちろんホワイトデー用にクッキーも買ってある。
自分が袴田と魚住にごり押しして無理やり定時に帰ったくせに、『バレンタインだけでなく、ホワイトデーにも会えるようになるなんて、何て幸運なんだろう』等と、魚住に聞かれたらそれこそ呪われそうな事を思いながらスーパーの袋を持ち直した青島だったのだが。
「………あ」
目の前に官舎が見えてきた所で、こちらに向かってくる見慣れた人物を見つけて、思わず声を上げた。
「新城さん、もうこの辺でタクシー拾っちゃいましょう」
「………好きにしろ」
どこまで行っても低姿勢な声で小柄な恋人の後ろを付き従うように歩く真下と、小さな体でめいっぱい偉そうに早足で歩く、不機嫌な顔の新城。
少し離れていてもしっかり拾ってしまったその声に、何か事件でもあったのかと思ってみていれば。
「あ、新城さん。ニューオータニはあっちの車線から乗らないと。こっちは逆です」
そう言いながら、気安げに新城の腕を引く真下のコートの下が、絶対仕事では着ないようなフォーマルだと気づいて、青島は厭そうな顔で彼らを見つめた。
………ホワイトデーでホテルのディナーかよ。ったく、お坊ちゃんめ。
そう思う青島には結局気づかなかったらしい二人はさくさくと歩いて行ってしまい、青島の目の前で道路を渡って(信号がない所を渡ってた。官舎の前で道路交通法違反なんていい度胸だと思う)タクシーに乗って行ってしまった。
それを何となく見送ってしまってから、青島はスーパーの袋を持ち直してまた歩き出した。
この男の場合、と言うか、恋人が室井である場合、他人がホテルのディナーでバレンタインのお返しをする事に関して、特に男としてのプライドは傷つかない。
室井はそういう場所で食事をするのよりも、手作りのあったかいご飯を二人きりで食べる事を好むタイプなのだ。
曰く、『高級な物を形式張った場所で食うより自分で選んだ食材を自分好みに料理した物を寛ぎながら食う方がうまい』だそうで。
普段ストレスが溜まる場所で働いているのだから、ご飯を食べるのにいらないストレスを溜める事はないだろうということで、青島と室井は外食にしてもノーネクタイでは入れないような場所には入ろうとはしなかった。
最初は自分のお財布事情(所轄の給料は世間一般のサラリーマンにすれば少しはましかもしれないがまだまだぺーぺーだから薄給は薄給、しかもなんたって湾岸署の問題児で、『暴走と言えば青島』と言われるほどの男であるからして、減給処分なんて一度や二度じゃ済まされない)を考えて遠慮しているのかと思ったが、一度青島のおごりで食べに行った料亭は入る前から厭そうな顔で不満そうなオーラを垂れ流し、家に帰るなり肩の荷が下りたといわんばかりのため息を吐いてくれたのだから本当に好きではないのだろう。
よって室井を喜ばせたい時は、手作りの美味しいご飯(できるだけ和食)と美味しいお酒(日本酒)。これだけで良いのだと理解した青島は、美味しい寄せ鍋の材料と刺身と久保田萬寿二本、さらに自分用のビールを持って、室井の家の鍵を開けた。
勝手知ったる人の家、である。何の躊躇もせずにさっさと台所の入り口に食材を置き、居間に入って鞄を置いてコートと上着を脱いで台所に戻る。
手を洗って米がタイマーで炊かれているのを見てよし、と呟いて、スーパーの袋を流しの上に置いた。室井が帰ってくるまでに作り上げたい。風呂は食事と同時に入れないと冷えてしまうので、鍋の準備をして部屋さえ暖めれば準備万端だ。
アルコールはまとめて袋に入れ、切る必要がない鶏と魚の切り身とえびを冷蔵庫に放り込み(いつもながら感動するほど物が入ってないのに何故か防臭剤だけは入っている)、ボールを簡単にすすいでから野菜を片っ端から洗って切っていく。少しくらい多くたって気にしない。次の日の味噌汁にぶち込めば明日の朝ごはんの栄養もばっちりだ。
取りあえず切り終わった物を、水から煮る物と沸騰してから入れる物とを全く区別せずにアバウトにレトルトの寄せ鍋の元を入れた鍋の中に放り込んで火をつけた所で、いきなり玄関のドアが開いた。
「ええっ………?」
予想よりはるかに早い部屋の主の帰宅に、青島が素っ頓狂な声を出して玄関を覗いた。
ドアを開けるなり聞こえた素っ頓狂な声と、いきなり顔を出した声の主にびっくりしたらしい室井が目を真ん丸くして青島を見る。どうやら台所に青島が立っているとは思っていなかったようで、靴を脱ぎかけたままどうした、と聞いてくる。
「何だ、変な声出して」
「や、こんな早いと思ってなかったんで」
帰れたんだ、と少し嬉しそうな声で言う青島に、室井は安心するように微笑んで頷いた。
「メールを入れた後に帰れるようになったんだ」
靴を脱いで上がった室井が、青島の後ろで火にかけられている土鍋を見て鍋か、と呟き、顔をほころばせる。
「鱈が美味そうだったんで、寄せ鍋にしたんす。そろそろ鍋も食い収めですからね。酒も買ってありますよ」
「そっか」
心底から嬉しそうな顔の室井に、献立のセレクトは成功みたいだ、と青島は内心ほっとする。
だが。
「真下君が定時に抜けたから、今日は何時になるか分からなかったんだがな」
「……あのやろう」
ついさっき恋人と歩いていた友人のせいで自分が室井と会う時間が減らされかけたのだと知って、青島の顔が引きつる。
それにしても、予想より室井の帰宅が早すぎた。いや、早く会えるのは大歓迎なのだが、食事の支度がまだまだ全然できていない。鍋の中身はまだ沸騰すらしてないし。
内心しまったな、と思う青島には気づかずに、室井はくつろいだ様子でコートのボタンを外しながら続けた。
「一倉が『俺も帰るからお前も帰れ』と言って帰らせてくれたんだ。娘が起きてるうちに帰ってホワイトデーのプレゼントを渡さなければならないらしくてな」
「一倉さんが……」
意外そうな声で呟く青島に、あれで娘には甘いんだ、と言いながら居間に入った室井が、少し寒そうに肩をすくめてヒーターを点けに行く。そしてまだヒーターが点かない内にコートを脱ぎ、上着を脱いでベスト姿になった室井に、室井が帰る頃を見計らって部屋を暖めておこうと思っていた青島はさらにへこんだ。
そもそも、室井が帰ってきたときには部屋を暖めて食べごろの鍋を用意して待っておく予定だったのだ。それなのにまだ鍋の中身は火が通ってないし、一日中誰もいなかったリビングは冷え切っている。
失敗したなあ、と思ってちょっとしょんぼりした青島に、ネクタイを外した室井が気づいた。
「どうした」
「あ、いや」
「………………」
「……えっと………」
曇った室井の顔に、何でもないです、と笑ってごまかそうとしたが、下手に言いつくろう必要もないかと思って結局白状する事にした。
「……俺、本当は室井さんが帰ってきたときにはきっちり飯の準備して、あったかい部屋でくつろいでもらおうって思ってたんです。料理も酒も室井さんの好きなのを用意して、食ってる間に風呂も入れて。……でも、結局何にも準備出来てなくて……」
次第に言葉尻が小さくなっていき、せめて部屋あっためとけば良かった、と呟く声は、ファンヒーターが着火する音にかき消されて室井の耳に届かなかった。
「何でそんなに気合入れてたんだ」
「……ホワイトデーだから。バレンタインのお返しにサービスしようと思ってたんす」
何だかやけくそ気味になりながら説明した青島に、室井の目が丸くなる。
「たかがコンビニのチョコだぞ?」
「だって、三倍返しって言うじゃないっすか。真下なんかホテルのディナーの予約とって新城さんつれてってたし」
「………」
真下が急いで帰った理由を知って、危うく恋人との逢瀬の時間を短縮させられかけた室井は微妙に表情を曇らせる。
それをホワイトデーのお返しにしては大げさすぎると思っているのだと勘違いした青島は、カリカリと頭をかきながら続けた。
「室井さんそういうの好きじゃないから、俺は家でくつろいで飯食ってもらおうと思ってたんです。今日は完璧にやるぞって、考えてたんだけどなあ……」
「……帰り際にもう一度メールいれればよかったな」
「あ、いえ。俺が手際悪かっただけで」
「俺は」
青島が室井の言葉に慌てて言い返そうとするのを、室井の強い声が遮った。
「……俺は、今日もお前と会えるというだけで十分お返しをもらった気になったが」
「………室井さん」
照れが混じってぶっきらぼうになった室井の言葉に、青島が呆然と名を呼ぶ。その視線に室井はばつが悪そうに視線をそらした。
「会えること自体少ないんだ。色々気にしないでも………っ!」
早口で続ける室井の真っ赤な横顔に、青島は思わず室井を力いっぱい抱きしめていた。突然の事に驚いた室井が声を詰まらせる。
「青島……」
「ありがと、室井さん」
すげえ嬉しい、と耳元で呟く青島に、苦しいと言おうとした室井は結局何も言えなくなる。
「一ヶ月も会えなくて寂しかったよ」
「……ああ」
「ホワイトデーにも会えて嬉しい」
「ああ」
「大好き。室井さん」
「…………」
「……返事は?」
「……………ああ」
ぶっきらぼうに返事をした室井にくすくすと笑って青島は抱きしめる力を緩め、変わりにもっと密着するように体勢を調節する。
どうやら気分が上向いたらしい、と思って、室井は自分もこっそり青島の背に腕を回す。
その耳元にもう一度大好き、と囁いて、青島は室井の顔を覗き込んだ。
「じゃ、美味しいご飯作るから。待っててね」
「ああ」
ほっとしたように微笑んで頷いた室井ににっこり微笑んで、青島はわざと音を立てて室井の唇に口付けを落とした。
「改めて、お帰りなさい」
そう言って至近距離で微笑み、室井を腕の中から解放した青島は上機嫌で台所へ向かった。
取り残された室井は、青島の上機嫌な背中を見て微笑み、自分は風呂でも沸かしに行こうかと思ったが。
結局、青島の"お返し"に任せることにして、台所の方で「やべっ!強火にかけたまんまだった!」とか言っている青島の声に苦笑しながら、ソファに腰掛けて大切な恋人と食べる大好物の登場を待つ事にした。

2004,3,27



果てしなく「今更かよ」と言う感じですが、ホワイトデー企画です。
何だか書いてるうちにどんどんどんどん長くなってくし、そのおかげでいつまでたっても終わらないし。
あげく、何だか甘っちょろいまま終わるし(最悪)。
こんな手こずるなんて予想外でした。おとなしくギャグいっとけば良かったのかな……。
書いてるうちに、何だか青島が「初めて母の日にご飯を作ってあげようとする子供」のように思えてきました……(なぜ父の日ではないのか)。
だらだらと長くてごめんなさいでした……。
ホワイトデーで壁紙もキャンディーなのにキャンディー登場しないし……(土鍋の壁紙なんてありませんよね〜←探すな)。



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