『祈』念日
気付けば一人、木造の建物の前に立っていた。 否、一人ではない。そう気付けたのは、重い打擲音と怒号が耳に届いたからであった。 『貴様は!それでも日本国民か!この腑抜けが!』 怒鳴る声は奇妙に遠いが、日本をすくませるには充分なものであった。 ……今の、日本を怯ませるには。 『はい、申し訳ありません!』 声のみが木造の建物……恐らくどこかの官舎だろう……から間近に聞こえ、ガラス越しに見えるはずの姿は何故か見当たらなかった。 まるで、声だけがこの場に取り残されているように。 ……ああ、夢なのだ。 ひどく冷静で、それでいて心から『これ』を恐ろしく思っている自分が、そう思った。 『日本男児たるもの、貴様の如きやわな態度でいてはならんのだ、分かってるな!』 『はい、申し訳ありません!』 きっと言った方は仁王立ち、言われたほうは直立不動なのだろう。『あの頃』幾度となく目にした光景だった。 ……嫌です、こんな。 耳を塞ぎたくとも手は動かず、制止したくとも姿は見えず。ただ、頭に残った鮮明な残像は、『あの時』の粘つく暑さまで思い出させた。 『いいか!貴様はこの国が勝つために、命を賭して戦わねばならん!』 ……嫌です。聞きたくない。 『お国のために死ね!』 ……『私』はそんなこと望んでいない! 心の中でそう叫んだ瞬間、ぶつりと明かりが切れたように真っ暗になった。 己の足元すら見えない、真の闇。 それでもなお、先程の声がなくなったことに何より安堵した、その瞬間。 『明日、発つのか』 『ああ』 また別の声が聞こえ、びくりと引きつった。 『どうせ死ぬんなら、KA(※『家内』の隠語)のために死にたいもんだ』 『おいおい、誰かが聞いたら』 『分かってるよ』 聞こえる声は、ひどく若かった。 そして、明るい声で。 『では、靖国で』 『ああ。靖国で会おう』 笑いながら、生きては帰れないと、告げるのだ。 ……嫌だ! 声は出せぬままそう喚けば、またぶつりと声は途切れた。 そして次に聞こえるのは、プロペラ音。 だんだん、だんだん、近付いてくる。そして。 『大日本帝国、バンザーイ!』 誇らしいような、追い詰められたような、絶叫は、もはや正気の色をしていなかった。 それが、最後に渡されるヒロポンのせいなのか、恐怖のせいなのかは、分からなかった。 そして、日本が最後に聞いたのは、重い、でも命が消えるのにはとても軽い、爆音だった。 「………っ!」 声にならぬ悲鳴を上げ、日本は飛び起きた。 デジタル時計が視界の端で瞬く。冷蔵庫の、小さく低い電子音。 自分の荒い息遣いと、虫の鳴き声が耳に届く。 ……違う。今は、『あの時』では、ない。 今まで見ていたのが夢だったのだと……、少なくとも、現在の光景ではないのだと実感し、ほっとため息をついた。 全身が、衝撃を覚悟したかのように強張りきっていた。 真夏で、クーラーを切っているのに、全身が冷たい汗に濡れている。 ひどく喉がからからで、額の汗を手の甲で拭って日本はタオルケットをめくった。 「水……」 無意識に呟いて立ち上がろうとした。 その、瞬間。 『水……。水を、ください……』 「……は」 夢の中に置いて来た筈の声が聞こえ、日本はびくりとタオルケットを掴んだ。 『ああ……熱い………』 『熱いよお……水……』 呻く声は、耳に直接響いてくる。 『川に死体が溢れてたってさ』 『広島に新型爆弾が』 耳鳴りのように聞こえてくる声は段々と大きく、多く。まるで心をすり潰そうとするように。 頭に直接こだまする声に、日本は思わず口を覆った。 『損害は、極めて軽微』『今度は長崎』『体中にガラスが』『逃げ遅れて下敷き』『何もなくなって』『ピカが』『影だけが残った』『地獄』 『死の街』 「……ひっ……」 喉奥から悲鳴を上げた瞬間、古傷にずきりと痛みが走った。 そこを無意識に押さえた瞬間、うるさいほどの声がぴたりと止んだ。 ほっと息をつこうとした、その時。 『お国のために、死んで参ります』 どこか感情を置き忘れたような、無理矢理昂揚しようとしているような声が、頭の中にこだました。 「あ……あ……、違……違う」 うわ言のように呟きながら、日本は思わず頭を押さえてうずくまった。 『貴様も日本国民ならば、お国のために』 「違う、そんな……私は……」 『お国』のために 「『私』は、そんな事、望んでなど……!」 うわ言のように叫びかけ、頭のどこかで冷たい思考がそれに反駁する。 ……本当に違うのか。あの時の自分は……『国』のために散る命を、当然と受け止めていなかったか? 「うっ……あ!」 「……日本?」 思わず呻いた瞬間、不意に声をかけられ、日本はびくりと体を震わせた。 「どうかしたのか?声がしたから……」 ひどく気遣わしげな、それでいて押し付けがましくない声は、泊まりに来ていたイギリスのものだった。 明日の式典に参列するため、来日していたところを日本に招待されたのだ。 彼を起こしてしまった事への申し訳なさと、悪夢から救われたことへの少なからぬ安堵を覚え、そのどちらも態度に出せぬまま固まっていると、部屋の電気がつけられた。 明るくなって日本の顔を見た瞬間、イギリスは軽く目を見張った。 自分がどんな顔をしているのかは分からない。 涙こそ流れる感触はなかったが、冷や汗で顔が濡れているのだけが分かる。 イギリスはかけるべき言葉を数秒探したようだったが、結局今の状況については何も言わず、ただ一言、台所を借りるぞ、とだけ言い、背を向けた。 程なく戻ってきたイギリスが手にして来たのは、温かい緑茶を煎れた茶器の乗った盆だった。 「味の保障は出来ないが……」 わざとらしくしかつめらしく告げられつつ渡された茶器は、先日日本が手ほどきした通りに香りよいお茶が煎れられていた。 その、身に馴染んだ香りと、温かさに、心が解ける心地がする。 一口、二口と口に運ぶうち、日本は自然に、先ほどまで浮かされていた夢を……己の過去を、ポツリポツリとイギリスに語っていた。 お国のため、と死んで行った者達がいた事。それが故に焼け野原になった国土。そして、それを疑問に思わなかった自分。 歪だったあの時代、民意に酔わされていたとは言え、散った命に何も思わなかった自分がいたのだ。 「『お国のため』なんて……。私が皆さんに返せるものなんて、何もないと言うのに……」 独白はため息が締めくくった。その間、イギリスは少ない相槌だけでただ日本の言葉を聞いていた。 手の中の湯呑みがすっかりぬるくなる頃、日本は小さく鼻をすすって自嘲した。 「すみません。取り乱して」 言えば、返ってくるのは強く、優しい声音だった。 「いや。一人で悩まないでくれて良かった」 心からの言葉に、ただ短く感謝の言葉を告げると、イギリスは手の中の碗を口に運んだ。 「……うちの陛下も、よく泣いてたよ」 「……イギリスさんの?」 ポツリとこぼされた言葉に問い返せば、イギリスはひどく静かな笑みで頷いた。 「ああ。歴代の王や女王だ。『我らが女王陛下の御為に』と戦に出るから」 「………」 「今でもそうだ」 今の女王の治世は長い。先の大戦の折には既に即位していた。 そして、大戦を経験した頃はまだ年若かったはずだった。 「お辛い、でしょうね」 今の己ならば辛いと思いながら言えば、イギリスは苦い笑みを浮かべる。 「ああ。明らかな死地に送り出すこともあるからな」 それでも、国民の前では決して感情を見せないのが、英国の王であり、女王なのだ。 「でも、こっそりと泣いてたよ。見せない場所で」 きっと若い王や女王を、イギリスが慰めたことも多かったのだろう。 「イギリスさんは、何と?」 尋ねれば、苦笑に少し自嘲の色が混ざったようだった。 「『誰かのために死ねることは、意味のある死は、救いだ』と。……欺瞞だけどな」 自身も『イングランドのために』と言われ続けただろう身だ。それはイギリス自身への言葉であるのかも知れなかった。 「でも、もう『国のために』死ぬ人間はいない世界になって欲しい」 「ええ」 イギリスが心からの祈りを口にし、日本がそれに強く頷いた、その瞬間。 デジタル時計が、八月十五日丁度をさした。 |
久々に上げるのが暗めの話で申し訳ないです。
8/15日中に上げたかったのですが、ネット環境の都合で遅れました。
でも1年後の8/15に上げるには待ちきれなかったので、8月中に。
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