右腰に怪我を負い、というか負わされ、個室に缶詰(入院)すること、数週間。 被疑者に刺されたという事でもなかったら大部屋だっただろう(事情もなしに差額ベッド代を出してもらえるほど所轄の刑事の待遇はよくないのだ)事にちょっと感謝したのもつかの間。話し相手がいないことに即効飽きて、それでも看護士には『自主リハビリ禁止令』なるものを出され、いい加減暇をもてあました頃。 いつものスーツ姿で、いつもの黒コートとでっかいかばんを持った、いつもの眉間の皺の人が病室にやってきた。 「む、室井さんっ?」 声が裏返ったのは、いきなりやってきた人物故ではなく、あわてて隠した雑誌が『緒方君お勧めの一冊』だったからであった。 明らかにおたついた青島に、室井は少し困ったような顔で、「今大丈夫か」と静かに言った。 「ええ、もちろんっすけど」 どこか遠慮しているような、むしろこのまま帰りたそうなのを我慢しているような風情の彼に首を傾げつつ、開きっぱなしにしてあった折りたたみいすを勧める。 すとんと腰を下ろして、まずはお決まりの『具合はどうだ』が始まるだろう前に、青島は内心のしこりを隠して明るい声を作った。 「何すかもう、来るの遅すぎっすよ」 見舞いの品らしい、余ってもしばらくは持ちそうな果物の盛り合わせを受け取りながら、にやりと笑う。 きょとんとした顔の室井に、ちょっとすねた様な声で続ける。 「来てくんないのかと思っちゃいましたよ」 すみれや真下を筆頭に同僚たちは、ちょこちょこと時間を見つけては訪れてくれるが、非番のときや仕事の帰りとなるとどうしても時間制限があり、本当に来てほしいと思うほどに暇な時には誰も来てくれない。 ひとえにそれは自分達の職業故だとは分かってはいたが、こんなに暇だと恨み言の1つも漏れるというものだ。 青島のその言葉に、室井は一瞬むっとしたような顔になったが、すぐにそれを苦笑に変えて言った。 「君に『来るな』といわれたんだが?」 「……へ?」 予想もつかなかった反論に、青島の目が丸くなる。 それを見ながら、室井は覚えてないのか、と呟く。 「『見舞いに来たら、蹴り入れて追い返してやる』って言ってたな」 「………あ、れ……?」 そこまで言われれば、なんとなく思い当たる。 『室井さんも来てたんだけどよ、お前ぇが"見舞いに来たら追い返す"なんつって強がってんの聞いて、本気に取って帰っちまったぞ?』 いつだったか、和久が見舞いに来てくれた時にそう教えてくれた。 その言葉通り、室井は今日まで一度も見舞いに来てくれることがなく、青島としては失言だったと暇をもてあます入院生活の中でこっそり肩を落としてはいたのだが。 それを当人の口で聞くと、決して本気に取ったわけではなく、ちゃんと、自分が望んだ通りに、仕事をすべき時間の合間でなく、本当に時間が取れたときにだけ自分の所に来てくれるようにしてくれただけだったのだと気づく。 それでも、穏やかな微笑が、張り詰めたところのないゆとりのある表情が、決して普通の休日だからというわけではない事を、青島は知っていて。 やけに静かなその表情が、何かを受け入れる時の諦めの表情のように見えて。 どうしても張り詰めてしまいそうな表情を意識して緩めて、彼はにやりと笑って見せた。 「あいにく、まだ足上げたら痛いんで。全快するまで蹴れないんすよ」 軽口のつもりでそう言った途端、室井の表情が強張った。 あ。しまった。 そう思ったときにはもう遅い。目を伏せてしまった室井と顔をしかめた青島の間に、不自然な沈黙が流れる。 いつもの軽口はどこに言ってしまったのか。何か言いつくろおうかと口を開くが、何も言葉が浮かばない。 何も考えずに喋れば、余計墓穴を掘りそうだった。 「……すまない」 ポツリと室井が言った。ドアの向こうの、看護士や患者の足音にかき消されそうな声で。 「……すまない」 二度目ははっきりと。しかし、泣きそうな、掠れた声音だった。 「……室井さん」 『すまなかった』ではなく、『すまない』。 その一言で、室井の中ではこのことが現在進行形であることを物語っていた。 「あんたのせいじゃないよ」 やっと出てきた言葉は、ありふれた、多分すでに他の誰かに言われているだろう言葉だけだった。 違う。こんなんじゃ。もっと何かないか、と、気ばっかり焦る。 「あんたのせいじゃ、ない」 しかし同じ言葉しか出てこなかった。しかもなんだかへなちょこな声で。 それでも、室井は目を上げて、青島の表情を見て、少しだけ心が軽くなったように微笑んだ。 「ああ」 短い言葉は、100%それを受け入れている響きではなかったが、どこか安堵しているようなそれだった。 ……もしかしたら、自分に責められることを覚悟していたのかも知れない。 ほっと安堵しかけた青島は不意にそう思い当たって、苦い気持ちで俯いた。そんなことが、自分が室井を責める事など、ある筈はないのに。むしろ、それは。 俯いた青島の顔が曇るのを認めて、室井の顔も曇る。 「青島……?」 心配そうな声に、青島は短く息を吸い込んで、俯いたまま、言った。 「………すいません」 掠れた声に、室井は大きく目を見開いた。それすら確認する勇気もなく、青島は顔を上げられないまま繰り返す。 「すいません」 「何のことだ?」 怪訝そうな声に、青島は恐る恐る顔を上げる。室井は真実何を言われているのか分からないという表情をしていた。 「……降格処分、だって」 絞り出した声は叱られるのにおびえる子供みたいだった。いや、『みたい』ではなく、事実そんな心境だった。 謝るのは自分のほうだ。室井の人生に、これからの出世に、これ以上ないダメージを与えた。 自分のせいで室井が降格になったと聞いたときは血の気が引いた。もし撤回できるのなら、もう一度交番勤務からやり直しても、いっそくびになったとしても構わないと思った。 そして、室井から責められても、それは当然のことだろうと思っていた。それはあまり起こる可能性がないことだったし、室井はむしろ自分に謝るだろうと、予想はしていたのだが。 それでも、ここで謝るのは自分のほうなのだった。 青島の言葉に、室井は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに普通の笑顔になって、ああ、と小さく頷いた。 その表情はどこか晴れやかだったが、瞬間的に土下座したくなる。そして同時に、この場から逃げ出したくなる。 そのどちらももちろんできないので、青島はじっと俯いて黙り込んだ。 またも沈黙が落ちる。 室井が言葉を探しているのが分かる。そんな風に、気を回してもらう理由なんてないのに。 「青……」 「すいません」 何か言いかけた言葉を遮って謝罪の言葉が出た。これじゃただの子供だ。 自己嫌悪に陥る青島に、室井は大きく深呼吸をして、まっすぐ青島のほうを見ながら口を開いた。 「青島。私は、諦めたつもりはない」 「………え?」 思わず間抜けな声を出して上を向くと、室井の光が強い目がしっかりと自分を見つめていた。 「これで終わりにする気はない。1からでもやり直して、絶対に上に行って見せる」 「……室井さん………」 呆然と呟く青島に、室井は揺るぎない視線で続ける。 「絶対上に行く。君との約束を果たしてみせる。……これが約束だから、ではなく、自分の信念だからだ」 照れも、意地を張る様子もなく。自然体の言葉。 「室井さん……」 ………ああ。 この人らしい、この上なく。 そう思って、青島は自分の胸が熱くなるのを感じる。 これでこそ室井さんだ。そう確かめて、ひどく嬉しくなった。 そして。 青島の心の中、今度の事で少しだけ湿りかけた何かに、また、灯が点った。 「………はい。室井さんなら、できます」 微笑んだ青島に釣られたように、室井の口角が微かに上がる。 それを見て青島の笑みが深くなった。 それからは普通の、普段どおりの会話(と言っても誰が聞いてるか分からないから仕事のことは話せなかったが)をして、ほどなくして面会終了のアナウンスが流れた。 「………じゃあ、私はもう行くから」 大人しくしてるんだぞと、何でだか皆に言われることをこの人にも言われ、ちょっと複雑になりながら頷き。 そうして、少し名残惜しい雰囲気はあったが、これが今生の別れと言うわけでもなし、室井はあっさりと立ち上がった。 「………行ってくる」 そんな言葉を言ったのは、たぶん自分自身にも発破をかけるつもりなのだろう。 「行ってらっしゃい」 そう、くすぐったそうに返す青島に微笑んで、室井は青島に背を向けた。 決意を表した背中で。 ……その、瞬間。 我知らずその背中に手を伸ばしかけて、青島はあれ?と自分の手を見つめた。 室井はそれに気付かない。振り向かないまま、病室から出て行った。 残るのは宙に手を浮かしたままの、青島一人。 なぜ自分は室井の背中に手を伸ばそうとしたのか、特に引き止める理由も見つからず。 かといって、何故だか自分の中にきちんと理由がある気がして、青島は一人首を傾げていた。
『入院』というものは『暇をもてあます』という言葉と限りなく同意語に近いものらしく。 看護士の目を盗んで自主リハビリに励んだり(毎回こってり怒られた)、真下が持って来てくれた雑誌をめくったり(趣味がずれてるのですぐに飽きた)する以外の、大量にあまりまくった時間を、青島はあの時の自分の行動の理由を熟考することにあてた。 そして、青島の中の基本的な常識というものを取っ払って(だってそんな感情は異性にしか向けた事がなかったわけだし)、やっとその『理由』の名前に気づいた時にはもう。 この手で引き寄せたかった人は、北の人になってしまっていて。 「………あ〜あ」 呟く声があまり残念そうでないのは、さらに余った時間でもって、相手がこの気持ちを告げるのにちょっと障害がある人だということに気づいたからで。 もし近くにいたりしたら何も考えずに告げてしまっていただろう事にひやっとしたりした後は、彼の人が帰ってくるまでに、そもそも隠し通すか言ってしまうかをじっくり考える事にして。 それなりに有意義に入院生活を終えた彼は、忙しい騒がしい日常の中にまた舞い戻り、日々を過ごして。数ヵ月後、帰ってきた彼に会うために、速攻約束を取り付けたのだった。 あの背中に、今度こそ手を伸ばすために。
2005,8,27
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