あたたかな雨

ウリエルを乗り捨てて走り出すのに手間取り、標的とそれを追って行った男を見失った。
厚く立ち込めた雲のせいで薄暗く、視界が利かなくなるほどの冷たい雨の中、マタイは目に入った雫を拳で拭う。走る体はものの1分も経たないうちにずぶ濡れになり、全身にまとわりつく法衣がじっとりと重かった。
もともとは別件で動いていたはずの薄青色の髪の偉丈夫と、同じ標的を追うようになって、2日。
やっと追い詰めたと思った吸血鬼は、己の劣勢を悟るなり、その身体能力のすべてを持って逃げに回った。
『逃がすかっ!』
怒鳴りつつ紅と銀をまとう後ろ姿が消えていった先は、狭い路地。とてもウリエルに乗ったまま入り込める場所ではない。
生身で追うことに対しての躊躇はほんの半瞬。懐の自動拳銃を確かめる頃には、開ききっていないハッチから飛び出していた。着地する瞬間に部下達に「待機せよ」と命じ、次の瞬間には駆け出している。ハッチが閉じる音も聞いていない。
しかし、その間すらこの場では致命的な遅れであった。すでに肉眼で捉えられる範囲には1人と1匹の姿はない。
それでも大して焦った様子もなく、マタイは淡々と一本道の路地を走っていた。
あの男であれば標的を追い詰めるのは容易いだろうし、交戦となればあの喧しい"叫喚者"の音が聞こえてくることは必至。ただ、聞こえてからより早く現場に辿り着くためだけに走り続けていた。
群集のざわめきの様にも聞こえる雨の中、万一あの猪が標的を見落としていないかを確かめながら走る。
「………貴様ぁっ!」
そんなマタイの耳に、雨音をつんざいて雷のような怒号が届いた。方向は11時。声の主は考えるまでもなく、ただ、それにしても随分と遠くまで逃げおおせたものだという事だけ冷静に考えた。もう少し走れば、普段はほとんど違和感もない古傷が痛み出すところだった。
雨粒のカーテン越しに見える横道。確かその先には少し開けた場所があったはずだ。
右手に銃のグリップを握りつつ走れば、響き渡る聞きなれた"叫喚者"の音。
それに混じって何がしかの怒号が聞こえた気もしたが、定かではない。ただ、マタイの予想に反して、彼が辿り着いた時には事は片付いていた。
唸りながら眠りにつく"叫喚者"。その十数メートル先に、半ば壁に塗り込められるように潰された肉片。
そして。地面に転がる、この辺りで標的を探していて巻き込まれたのであろう、見知った制服を着た死体と、それを見下ろしこちらに背を向ける偉丈夫。
土砂降りの中目を凝らせば、死体の顔には見覚えがあった。ほんのつい最近入局したばかりの青年だ。名前までは覚えていない。
『局長のお側で働くことができて光栄です。よろしくお願いします!』
そんな歯の浮くような台詞を当然の顔で言ってのけた奴だ。
"壊滅騎士"等と呼ばれ、皆に恐れられている男には、内心さぞ嬉しかっただろう。うむ、と短く返事をして頷いた横顔がやけに神妙だったのを思い出す。
あの時偉丈夫を見上げた真っ直ぐな瞳が、今はどんよりと白く濁っていた。
首を中心に、地面に落ちた雨が鮮やかな赤に染まっている。
延髄すら噛み千切られ、血を啜られれば恐らくは即死だっただろう。銃を握る暇すらなかったはずだ。
特に何の感慨も湧かないまま、マタイは冷静に状況を分析する。
視線を移せば、握り締められた"叫喚者"の先端から、吸血鬼の物と思しい血と肉片が雨に洗われて流れ落ちる。
偉丈夫は、微動だにしない。まるで冷たく強いこの雨に縫いとめられたようだ。
その拳が、力を込めるあまりに小さく震えているのを見て初めて、マタイは胸が焦げ付くような感情の揺れを覚えた。
片手で煙草を入れた胸ポケットを探る。だがずぶ濡れの法衣の下、湿気に弱い煙草が無事なはずもないと思い直し、ばつが悪い思いをしながらポケットから手を離し、代わりに、懐に使われることがなかった自動拳銃を捩じ込んだ。
目の前の俯いた背中に、胸の底が焦げ付く。
………全く。猪がたまに立ち止まればこれだ。見ていられない。
そう、どこか冷えた頭で考えた。
部下が死ぬことなどいつものことだ。全く犠牲を払わない戦いなど今までほとんどなかった。
それを分かっていながら、普段は部下を傷つけられても怒りこそすれ俯くことなどないくせに、たまにこうやって見た光景に一々傷つく。
…………胸の底が焦げ付く。
分かっている。それでこそこの男だ。全てを割り切るようでは身内の信頼は得られない。この熱さ、そしてナイーブさこそがこの男を、異端審問局局長たらしめている理由だ。
分かってはいるが。
「………ブラザー・ペテロ」
努めて静かな、しかし雨音に紛れない程度の声で呼べば、ほんの少し遅れたリアクションで偉丈夫──ペテロは振り向く。
「局長」
呼びかけて距離を詰める。雨に邪魔されて、この距離では表情がよく見ない。どんな阿呆面か、見てやらないと落ち着かない。
「………マタイ」
返す声は小さく、聴こうと注意していなければ雨音にかき消されて耳には届かなかっただろう。
その呼び声に少しだけ唇の端をあげ、どんな表情の変化も見逃さない距離まで詰め寄った。
「あんた、何て顔してるんですか」
僅かに苦笑交じりの声。見つめる先ではへの字の唇が兜の下から覗いている。
「………どんな顔だというのだ」
答える声は硬い。いつもの気迫のかけらもない。
「…………全く」
笑みを深めながら、相手の兜に手を伸ばす。一瞬体が逃げかけたが、結局踏み止まってペテロは大人しく兜を脱がされた。
「……不敬であるぞ」
らしくない掠れた声でただ一言抗議の声が上がったが、それに大した意味があるとはお互い思っていない。
すいませんねとおざなりに返事をしてマタイは顔にかかった薄青色の髪を指で退けた。
ともすれば憤怒のそれにも見える、何かを耐えているような表情。それに笑みを深くして、マタイは片手の手袋を外して強張った頬に触れた。雨に冷やされ、血の気の引いた冷たい感触。いつもは体温が高いそこより、今は走ってきた自分の手の方がかすかに暖かい。
ピクリと頬の筋肉が痙攣した。虚勢の堰が崩れかけているのを指先で確かめる。それを解すように撫でて、微笑む。
「いいんですよ。雨に紛らせればいい」
自分でも思ってもみないような穏やかな声で言った。
何が、とは言わないその言葉に一瞬目を見張り、数秒また耐えるような表情をするのを見た後、指先に触れる雫が温かくなった。
噛み締める唇を指でなぞり、緩ませて、そっと頬を撫でる。
ふと、マタイは先程までの胸の焦げ付きがなくなった事に気付いて苦笑した。
……何の事はない。苦しいことを苦しいと、自分に言わない相手に焦れただけの事。
この男が甘かろうが、傷つき易かろうが、そんなことはとうに分かりきったことであって、大した事ではなかったのだ。
そんな自分の幼稚さに苦笑しながら、両手を後頭部に回して引き寄せた。
落ちた兜が地面に転がるが、それに構う余裕は今のペテロにはないし、マタイは気にしない。
ペテロの頬を伝う、塩辛い『雨』を舐め取って、マタイはペテロの唇をふさいだ。
戸惑い、離れようとする相手の首から背中に腕を回して、むりやり口付けを深くする。
程なくこちらの肩に手を置いて口付けに応えだすペテロに、マタイはひっそりと笑った。
苦しめばいい。醜態をさらせばいい。自分の腕の中で。
嗚咽と口付けに乱れた呼吸を感じながら、心の中でそんな莫迦な事を呟いた。
そうは行かないことなど百も承知だが、この雨に紛れて、この男の頬を濡らす物に誰も気付かなければいい。
そう思って、マタイは角度を変えて嗚咽ごと吐息を吸い取った。
深い長い口付けからペテロを解放すると、マタイは至近距離でくすりと笑った。
「酷い顔ですね」
「………煩い」
乱れた呼吸での照れ交じりの返答に、鼻の上に1つ口付けを落として、マタイはペテロから手を離した。
落とした兜を拾い、やや乱暴にペテロの頭に被せる。一瞬不満げな顔をしたが、これなら顔を見られずに済むのでペテロは何も言わなかった。
「戻りましょう?」
とりあえず見た目だけは何事もなかったかのようになった相手にそう微笑んで、外していた手袋を付け直す。
待機させたままの部下達に遺体の回収と吸血鬼の肉片の処理を指示しなければならない。
うむ、としかつめらしく頷いたペテロが、予想通り後ろを気にするが、マタイはそのまま歩き出した。
程なく続く、甲冑の足音。やがて横に並ぶ。
「………マタイ」
「何ですか」
「……………世話になった」
小さい呼びかけに答えれば、ペテロはもごもごと聞こえづらい声で感謝の言葉を呟いた。
くすりと笑って、引き結ばれた唇を流し見る。
「つけておきますよ」
「うむ」
短い返答に、マタイは笑みを深くした。
それをちらりと見て、ペテロは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
その様子がすっかり元通りなのを見て取って、マタイは細い目をさらに細めた。
「………また頬に『雨』が降りそうなときにはお気軽にどうぞ?」
ほんの少しからかうような色を混ぜて言った言葉の意味を数秒かけて理解したペテロは、かっと頬に血を上がらせた。
「〜〜〜っいらぬ!」
怒鳴って早足になった偉丈夫の様子に思わずくすくすと笑い声を漏らしながら、マタイは急ぐことなくその後ろに続いた。
あれだけ強かった二人を濡らす冷たい雨も、もうすぐ止みそうな気配だった。


マタペテにはまってすぐに、もうすぐ作品募集が終了してしまうマタペテウエブ企画:「あいあいがさ」様に参加させて頂きたいと言う勢いだけで書いてしまったマタペテです。
ギリギリに滑り込んでしまって申し訳なく……。それどころか、ベテランの皆様の中で初マタペテを投稿なんて蛮勇過ぎる気が……。
ペテロさんがこの位で泣くかどうかは微妙ですが、『熱い男だから』ということで。
書いててすごく楽しかったです。やっぱりペテロさん好きだ〜。

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