バレンタイン
そこは、買い物には便利だけど別に都会というわけではない、ありふれた町にある、快適ではあるけれどそこまで広いわけではない、まあ中くらいのランクのマンション、「コーポウエスト」。 一階に二部屋ずつ、全十一階建ての建物の七階には、二組の御夫婦が住んでいました。 とっても仲睦まじいお二組は、ご近所でも評判のラバップルでした。 今日は、そんなお二組の一日を覗いてみましょう。 今日は二月十四日。 そう、バレンタインデーです。 702号室では八戒奥さんが、旦那様を送り出してすぐに戸棚から板チョコを取り出しました。 旦那様とお隣のご夫婦のため、チョコケーキを作るのです。 たくさん食べる悟空奥さんのためには大きな丸型。甘いものが苦手な三蔵さんには小さい丸型で。 そしてもちろん旦那様の悟浄さんには、大きな大きなハート型で作ります。 三蔵さんと悟浄さんのチョコケーキには、ブランデーを染み込ませるつもりです。 より美味しく作ろうと、八戒さんは腕まくりをして気合を込めました。 一方、701号室では、悟空奥さんが三蔵さんにお茶を出しています。 三蔵さんは家で仕事をしているので、八戒奥さんのように旦那様がいらっしゃらない時にこっそり作ることは出来ません。 それでも悟空奥さんは、三蔵さんに内緒で作ろうと頑張ります。 「俺がいいって言うまで、絶対台所に入るなよ? いいな?」 「あ? いきなり何言いやがる」 不思議そうに返されて、悟空奥さんは不自然に裏返った声で答えます。 「……いいから! 入るなよ?」 「………ああ」 言われなくても、三蔵さんが台所に入ることはほとんどありません。 いきなりそんなことを言い出すのがかえって不自然でしたが、三蔵さんは取り敢えず頷きました。悟空奥さんの不自然な態度より、今はお仕事のほうが大事だからです。 三蔵さんが頷いたので、悟空奥さんは満足そうに台所に入り、しっかりとドアを閉めました。 三蔵さんが開いているパソコンに出ている日付で、あっさりと理由がばれるとは少しも思いもしない悟空奥さんでした。 さて、悟空奥さんも戸棚からチョコレートを取り出します。 今日のために、ちゃんとチョコレートは三枚………………ありません。 「………あれ?」 ちゃんとあるはずのチョコが一枚しかないことに、悟空奥さんは真っ青になりました。 一昨日、いえ、………ほんの一週間前まではあったはずです。 四日ほど前までは、二枚は残っていたはずです………。 「……腹減ったときに、ちょっとだけだと思って……食っちまったっけ………」 チョコが足りないのでは、三人分のケーキは作れません。 悟空奥さんはちょっと泣きそうな顔になりながらドアを開け、驚いている三蔵さんの方を見ずにまっすぐ悟浄さんのおうちへと駆け出したのでした。 そして、702号室で。 「………食べちゃったんですか」 「………うん」 しょんぼりと落ち込んだ悟空奥さんに、事情を聞いた八戒奥さんは首を傾げました。 悟空奥さんが持って来たチョコ一枚と、持ってきているお菓子作りのを見て、八戒奥さんは穏やかな笑顔で尋ねます。 「僕が作ったお菓子の余りで良ければあげますよ? 何を作る予定なんですか?」 悟空奥さんは嬉しくなってお菓子作りの本を捲ります。 そして、本のページをいっぱいに開いて八戒さんに見せました。 「これ!」 「……………」 八戒サンは開かれたページを隅から隅まで見て、不思議そうに首を傾げました。 「………これですか?」 「うん、これ!」 開かれたページには、美味しそうなチョコレートケーキの写真が載っています。 そして、ケーキの名前の下には難易度が高いことを表す五つの星マークが。 以前も申し上げましたが、悟空奥さんは主婦もお料理も1年生。そして、……ちょっとだけ、不器用だったりします。 もうちょっと、もう少しだけ、お料理のお勉強をしないと作れそうにありません。 八戒奥さんはじっとページを見つめた後、貼り付いた笑顔の下で一生懸命悟空奥さんにかける言葉を捜しました。 そして、そっと本を悟空奥さんから取り上げて、そっとその本を閉じました。 「……悟空、このケーキは三蔵には甘すぎるんじゃないですか?」 「え? これ甘いの? コーヒークリーム入ってるのに?」 「コーヒークリームも甘口ですし、結構甘いんですよ」 悟空奥さんは本の表紙を見て、う〜んと考え込みます。 そこで、八戒奥さんは微笑んで更に後押しします。 「それに、これは結構手間もかかりますし、切り口を綺麗に切るのはとても難しいと思いますよ」 「う〜。………そっかぁ」 納得した悟空奥さんに、八戒奥さんは慈母のような微笑みで言いました。 「三蔵だったら、仕事をしながらでもつまめる物がいいんじゃないですか?」 「あ、うん。そうだな」 「じゃあ、僕がお手伝いしますから、ちょうど良さそうな物を作りましょうか」 「え? 手伝ってくれんの?」 ベテランの八戒奥さんが手伝ってくれるということで、悟空奥さんは嬉しそうに八戒奥さんを見上げます。 八戒奥さんは、にっこりと笑って頷きました。 夜になりました。 悟空奥さんのお菓子作りを手伝い、自分が作ったお隣の分のチョコケーキを悟空奥さんに渡して送り出した八戒奥さんは、悟浄さんが好きな料理とお酒の準備をして悟浄さんをお出迎えしました。 テーブルの上にはもちろん、朝作ったチョコケーキを乗せています。 二人で食事を終え、大好きなお酒も控えめにした悟浄さんは、いそいそとケーキのラッピングを開けました。 真っ白いケーキ箱の中から、とても美味しそうなケーキが出てきました。 そのケーキはもちろん、ハート型を………していませんでした。 「え?」 横から覗き込んでいた八戒奥さんが、焦ったような声を上げます。 八戒奥さんが悟浄さんに上げようと思っていたケーキは、ハート型でした。 悟浄さんだけに、大きなハート型で焼いたのです。 悟浄さんが喜ぶように、ハート型には香りが高い洋酒もたくさん振り掛けてあります。スポンジがしっとりするほどに。 なのに、出てきたのはあのハート型と同じ大きさに焼いた、悟空奥さん用のケーキだったのです。 「何だよ、ハート型じゃねえじゃ〜ん」 からかうように言う悟浄さんの言葉も耳に入らず、八戒奥さんは立ち上がりました。 洋酒入りのケーキを受け取った悟空奥さんが心配で、お隣に急ぎます。 残された悟浄さんは、目の前にあるケーキを食べていいのかどうか考えながら取り残されていました。 八戒奥さんがチャイムを鳴らすと、三蔵さんがお隣のドアを開けました。 いつもの不機嫌そうな顔の三蔵さんに、八戒奥さんは急いで事情を説明しました。 すると、三蔵さんは短く舌打ちをして、眉間に皺を寄せます。 何だかとっても迷惑そうな顔です。 「……貴様の仕業か」 低い、迷惑そうな三蔵さんの言葉の意味を尋ねると、三蔵さんは溜息をつきながら頭をかきました。 どうやら、悟空奥さんがもらったケーキを食べた後、酔っ払って笑い続け、いきなり電池が切れたように眠ってしまったらしいのです。 悟浄さんが食べるからと思ってたくさんお酒を染み込ませておいた八戒さんは、真っ青になって謝りました。 「すいません! ご迷惑をおかけして……」 「全くだ」 三蔵さんの溜息交じりの言葉に、八戒奥さんはぺこぺこと頭を下げます。 「用件はそれだけか?」 「はい……。おやすみなさい」 もういちどぺこんとお辞儀をして、八戒奥さんは自分のおうちに戻ります。 明日、ちゃんと悟空奥さんに謝らなきゃ、と思いながら、深く深く反省する八戒奥さんでした。 おうちに戻り、八戒奥さんはしょんぼりしながら悟浄さんに事情を説明します。 「……ちゃんと、悟浄のだけはハート型だったんですけどね………」 その事も思い出して、八戒奥さんは更に落ち込みました。 悟浄さんにあげる為に作ったハート型だったのに、自分の手違いで渡せなくなって、八戒奥さんはしゅんとなってしまいました。 落ち込んでしまった八戒奥さんの顔を、悟浄さんは覗き込みます。 悲しそうなその表情をしばらく見て、悟浄さんは八戒奥さんの頬にいきなりキスをしました。 「? 悟浄?」 びっくりした八戒奥さんに、悟浄さんはにこにこと笑います。 そして、まだ手をつけていなかったチョコケーキの端っこに、ナイフを入れました。 真ん丸いケーキの端を、悟浄さんは三角に切り取ります。 そして切り取った部分を指で摘んで取って、八戒奥さんに笑いかけました。 「どう? これでハート型」 悟浄さんが言うとおり、三角に切り取った部分を上にすると、ちょっと不恰好なハート型に見えなくもありません。 目をぱちくりさせて、八戒奥さんはケーキと悟浄さんの顔を見比べます。 悟浄さんは切り取った部分を口の中に放り込んで、指についたチョコをなめとります。とても嬉しそうです。 「な? これでハート型。うまいぜ、これ」 「……悟浄」 八戒奥さんがちょっと泣きそうな声で言うと、悟浄さんは八戒奥さんに自分の分のフォークを差し出しました。 「二人で食おうぜ?」 優しい声で言う悟浄さんに、八戒奥さんもやっと笑顔になりました。 「……はい」 頷いた八戒奥さんは、愛しい旦那様と一緒に飲むコーヒーを美味しく入れるために立ち上がりました。 ちょうどその頃。 お隣の701号室では、三蔵さんが一生懸命パソコンを覗き込んでお仕事をしています。 その横では悟空奥さんが、三蔵さんに運んでもらったベッドの中でぐっすりと眠っています。 悟空奥さんのすぐそばにノートパソコンを運んできた三蔵さんは、お仕事をしながら、悟空奥さんが眠ってしまう前にいれてくれたコーヒーを飲みながら、悟空奥さんが心をこめて作ってくれたチョコレートのかかったクッキーを摘んでいたのでした。 ハート型の、少しだけ焦げてる所があるクッキーを時々眺めながら。 |
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