『優』

「もう、いいって」
くすぐったげに身をよじって髪を乾かす手から逃れようとする悟浄に、八戒は溜息をついてドライヤーのスイッチを切った。
「ちゃんと乾かしてくださいよ。枕が濡れます」
「放っとけばすぐ乾くって」
さっきまで雫をたらしていた髪は、八戒が丁寧に乾かしたおかげでほとんど乾いている。
悟浄が言う通り、放って置いても少し時間を置けば乾くはずだったが、少し眠そうな悟浄が乾くまで起きているかが問題だった。
風呂上がりに、缶ビール二本と口当たりのいいフルーツワインを一本、ウイスキーのコーラ割を三杯飲んだ悟浄は、いつもなら赤くなりもしないはずなのに、すでにほろ酔いで目蓋の重さと戦っている。
珍しいこともある物だ、と内心思っていると、悟浄は眠そうに額や目の周りを擦りながら八戒の膝の上に頭を乗せてきた。
「悟浄?」
「ん? あ、悪い。服濡れるか?」
「いえ、それはいいんですけど」
ひどく無防備に体に力を抜いている悟浄を咎めるのもはばかられて、八戒はしばらくためらったあと微かに湿った悟浄の髪の中に指を潜らせた。
そっと顔にかからないように撫で付けると、悟浄の口から安心しきったような溜息が漏れる。
その様子が満腹の犬のようで、八戒は思わず笑みをもらした。
それでも眠ってしまわれたら困るな、と思っていると、指先が微かな皮膚の盛り上がりを感じた。
引っ張らないように気を付けながら髪を分けて見ると、頭皮に三センチほどの傷跡があった。
昨日今日つけられた傷ではない。幼い頃に付けられた深い傷の痕だ。
付けられた原因に、ふと思い至って、八戒は髪を撫でる手を止めた。
髪を撫でられるのが気持ち良かったのか、八戒の手が止まると悟浄は目を開けた。
「………八戒?」
どこか痛そうな顔の八戒を訝って、悟浄は八戒の視線の先を追って指先で頭皮に触れた。
「……ああ」
指先の感触で八戒の沈黙の理由が分かって、悟浄は気にした様子もなく手を下ろした。
「こんなん体中にあるぜ? 知ってんだろ?」
何でもないような口調に、八戒は頷く事が出来なかった。
そう、知っている。毎日目にするような位置に最たる物があるのだから。
それでも、毎日見ていて慣れるような物ではないのだ。
まして、何でもないような事のように語る悟浄の瞳がいつも、感情が殺されたような色をしていることに気付いてしまったから。
「………八戒?」
気にするなよ、と苦笑する悟浄に、八戒は笑い返せない。
笑いを引っ込めて、八戒を見上げた悟浄が、しばらくの沈黙の後、言った。
「………寝るか」
「……はい」
やっと返って来た返事が、さっきまでの明るい物ではなくて、悟浄はすっかり酔いが覚めた顔を少し俯かせて、後悔しているような、痛そうな表情を八戒から隠した。

「あれが、当然の事だと思えてればもう少し楽だったかもな」
ポツリと独り言のように、悟浄は天井を見ながら呟いた。
「あれが普通なんだって。暴力しか知らなければ、もっと苦しくなかったかも知れねえ」
八戒は何も言わない。悟浄も相槌を期待しない。
「でも、兄貴は俺を可愛がってくれたし、町のおっさん達やおばちゃん達はかわいそうだっつってた。優しくされたから、自分が不幸だって気付かされたんだ」
頬にかかる髪を一房摘んで自嘲する悟浄の目は、何かを諦めたような濁った目をしている。
それに酷く苛立って、八戒は思わず口を開いていた。
「でも、それを知っているから貴方は笑えるんですよ」
八戒自身思いがけなかったほど強い言葉に、悟浄は八戒の顔を見た。
笑顔を作ろうとして失敗した、少し怒ったような表情をしていた。どこか必死そうな目をしていた。
胸を突かれて、悟浄は目を見開く。
「優しくしてもらえたから、貴方は今笑えてるんです。貴方のお兄さんや、町の人達に笑いかけてもらえたから、貴方は笑顔を知ってるんですよ。人は笑顔を向けてもらえないと笑えないんですから」
暗に周囲の優しさを否定するなと叱られて、悟浄は自分の発言を後悔する。
「………悪い」
小さく、バツが悪い表情で囁かれた謝罪に、八戒の表情が緩んだ。
「悟浄。『優しい』って漢字があるでしょう?」
「? ………ああ」
不意の八戒の言葉に、数拍遅れて漢字を思い浮かべながら悟浄は返事をする。
「『優』と言う字は、「人が憂う」と書きますね。………人は、辛いことや悲しいことを経験しただけ、優しくなれるんですよ」
きょとんとして八戒を見ている悟浄の頬を両手で包んで、八戒は親が幼子に言い聞かせるように囁いた。
「もちろん、親が子供を虐待するなんて事は絶対にあってはいけません。……でも、貴方は、だから誰よりも優しいんですね」
痛みを知っているから、と続けた八戒に、悟浄は目を見開き、次に泣きそうな笑顔を浮かべて己の顔を包む八戒の手に自分のそれを重ねた。
「………俺、優しくなんかないぜ」
「優しいですよ。貴方に拾われた僕が言うんだから間違いありません」
微笑みながら悟浄の言葉に首を振った八戒は、悟浄をそっと抱き寄せる。
「自分の中に痛みの記憶がないと、人の痛みは分かりません。自分の中にない痛みは理解できないんです。………貴方の中に痛みがあるから、憂いがあるから、人に優しくできるんです」
すべらかな髪の手触りを楽しみながら言い聞かせる八戒の温もりに頬を寄せ、悟浄は目を瞑って小さく頷いた。
自分の抱える痛みは、決して無駄ではないのだと。
誰かに、他の誰でもない八戒に言ってもらえて、心が軽くなった気がした。
「……なら、お前も痛みを知ってるんだな」
「………そうでしょうか」
「ああ」
そうだよ、と呟く言葉の語尾は寝息に変わった。
唐突に重くなった腕の中の体に八戒は微笑み、強く彼の体を抱き締めて自分も目を閉じた。
少しでも、自分の憂いで、悟浄の憂いが優しく和らげばいい、と思った。


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