−10歳の恋人・前編
美味しそうな朝食の匂い。清々しい朝の気配。 「悟浄、起きて下さい。悟浄?」 今朝も恋人の優しい声で目を覚ます。 …………だが。しかし。 自分を起こす恋人の声は、予定より大分高かった。 いつもならここでお約束的に「あと五分」などといってみるのだが、今朝はその違和感にすっきりと覚醒し。 目を開け、恋人の姿を確認して。 布団を思いっきり蹴り飛ばして跳ね起きた。 「は、八戒……?」 指差す先には、苦笑気味の恋人の姿。 「おはようございます、悟浄」 「おっ?え?」 普通に挨拶されるのが、すごく不思議だ。 だって。 目の前にいる恋人の姿が、十歳未満の子供のそれになっているのだから。 「悟浄、あの………」 八戒が何か言うより早く、悟浄は八戒の顔を両手で包み込む。 まるで手品の種でも探すかのように、ぺたぺたと体を触ってみる。 「悟浄……?」 突然近眼になったかのように思い切り顔を近づける悟浄から後退りつつ、八戒は愛想笑いを作ってみる。 相手が無表情なのが、すごく怖い。 悟浄は五秒ほど、状況を把握するために黙ったあと、叫んだ。 「新手の嫌がらせか持病かそれとも昨日緊縛プレイなんてモンを試してみたせいかー!?」 「少なくとも最初の二つは違います!」 顔を真っ赤にして、八戒が怒鳴った。 「じゃ、緊縛プレイ……」 「短絡に考えないで下さい……。とにかく落ち着いてください」 ご飯出来てますよ、といいながら背を向けた八戒のエプロンの下は、安全ピンで襟が方から落ちないように留めたTシャツだけの模様。 それが小さくなってしまったことを何より物語っている気がして、何だか変な笑いに顔が引きつった。 「何笑ってるんですか」 「いや、何か今度は泣けてきた」 動転しているらしい。 「……とりあえず、朝ご飯食べてからいろいろ考えましょう?」 悟浄の肩をぽんと叩いて、八戒は何だか嬉しそうに苦笑した。 「目が覚めたらこうなってたんですよ」 食後のほうじ茶をすすりながら、八戒は原因がまったく分からないと言う。 「何かの病気ってわけでもないだろうな。そんなの聞いたことねえし」 「ええ、これと言って体調が悪いわけではないんです」 食欲もちゃんとある。 熱だって、さっき測ってみたが平熱程度しかなかった。 どこも変調はない。だが、体だけが縮んでいる。 「医者にみせるにしても、どこ行ったらいいか分かんねえしな……」 解決策はどうすれば見つかるのか、と眉間に皺を寄せて、考えて。 「……八戒、出かけるぞ」 「え?」 突然立ち上がった悟浄に、どこに、と聞く間もなく腕を掴まれる。 「まず服を何とかしないとな。道々で服屋に寄るか」 「ちょっ、ちょっと、待ってください、悟浄」 ひょい、と抱き上げられ、目を白黒させながら八戒は悟浄の服を掴む。 「どこに行くんですか?」 尋ねる八戒に、悟浄は嫌そうな笑みを浮かべた。 「根性腐りまくった生臭ボーズ様ントコ」 嬉々としてかわいい子供(つまり八戒だ)の頬や髪を撫でまくってくれた三十代くらいの女性店員にきっちりコーディネートされた服を着て、八戒はいまだ悟浄の腕の中だった。 「悟浄、靴も買ったんですから、もう歩けますよ」 「まあ、いいからいいから」 困惑気味な八戒と対照的に、悟浄はやけに上機嫌だ。 「抱き心地いいよなー。まあ、大人の時もかなりイイ感じだったけど?」 「往来でそういうこと言わないで下さいよ!」 言外の意味に顔を赤くし、八戒は悟浄の胸を叩く。 しかし、子供の力ではまったく痛くない。 ニヤニヤ笑いながら悟浄は八戒の体を思い切り抱きしめた。 「んー、かわいいかわいい♪」 「苦しいです!悟浄―!」 ぽかぽかと胸元を叩きまくった八戒をぎゅうぎゅうと抱きしめたあと、ひょいと悟浄は八戒を地面に下ろした。 「着いたぜ」 「え? あ……」 目の前にそびえ立つ門。 悟浄曰く、「根性腐りまくった生臭ボーズ様」=玄奘三蔵が身を寄せている寺に、いつのまにか着いていたのだった。 とてつもなく不機嫌そうな顔で迎えるなり、三蔵は言い放った。 「認知するしないの問題なら、俺は知らんぞ。帰れ悟浄」 どうやら、子供連れだと聞いて、「あなたの子よ。責任とって認知してね」と女から言われて困っていると勘違いしているらしい。 開口一発の三蔵の台詞に、悟浄が眦を吊り上げる。 「んなへましてね―よ。このくそボーズ!」 「何てこと言ってるんですか悟浄………」 疲れたような八戒の口調に、何か引っかかるところがあったらしい。 さっきから悟浄の足にしがみついている子供に三蔵は視線を移し……。 「…………奴がそんな問題を起こすとは思えんかったが……」 見事に、八戒の隠し子だと勘違いしてくれた。 「違います! 僕ですよ三蔵さん!」 「………あ?」 ニヤニヤ笑っている悟浄の前に出て、八戒はシャツを捲ってみせる。 洋品店のおね―さんを引きつらせた、腹の傷。 「………………」 事態を理解した三蔵は、八戒が状況を忘れてカメラ持ってくればよかったと思うほど、「これぞ驚愕の表情!」という表情をして凍り付いてしまった。 「………というわけで、原因はまったく不明なんですよ」 気を利かせてくれた僧がいれてくれたココアに口をつけ、熱すぎて火傷し、悟浄に冷ましてもらいながら八戒が説明すると、三蔵の眉間の皺が一本増えていた。 冷ましたココアを八戒に手渡し、自分の緑茶に口をつけながら、悟浄は無言で三蔵の答えを待つ。 「昨夜、何か変わったことは?」 「変わった事?」 尋ねられ、二人は顔を見合わせる。 悟浄は何だか意味ありげに笑い、八戒が怒ったように顔を赤くしたのを見て、三蔵は嫌そうな顔をして二人から視線を外した。 自分の執務室は来客二人の存在以外何一つ変わらないというのに、何だかとっても居心地悪く感じてしまう。 と言うか、二人の世界を作っちゃっているバカップルに、怒りが込み上げてくる。 「………別に変わったことはないんだな?」 「あ、はい」 苛つきを抑えるような三蔵の言葉に、八戒はやっと三蔵の存在を思い出したかのように、なるべく正確に答えようと注意しながら返事をする。 その返事に、三蔵は非常に面倒臭そうな渋面を作った。 「あの………?」 「……………………」 八戒が何か言った方がいいかと躊躇っていると、いきなり部屋のドアが開いた。 「ただいま三蔵! ……あれ? 何で悟浄来てんの?」 元気いっぱいに入ってくるなり、悟浄の姿を認めた悟空は、隣に座る八戒の姿を見て目を丸くする。 「うわ、八戒そっくり。この子誰?」 「……八戒本人ですよ悟空」 苦笑しつつ八戒が言うと、悟空はますます、目が落ちてしまうのではないかと思うほど真ん丸くする。 「どうして?何で俺より小さくなってンの?」 自分より小さいと言う悟空の言葉にこっそり傷つきながら、八戒は苦笑したままだ。 うわ、俺より小せえ、と言って八戒に更にダメージを与えつつ彼の横にしゃがみこむ悟空に、三蔵はほんの少しだけほっとしたような顔を見せた。 悟空の反応に気を取られていた八戒はそれに気付かない。 「悟空。遊びに来たんなら、表で八戒と遊んで来い」 「え? でも……」 いきなり言い放った三蔵に、八戒は困惑げに声を上げる。 が、それを無視して三蔵は続ける。 「お前より小さいんだからな。あんまり連れまわすな。それから、怪我をさせて泣かせたりするなよ」 「………中身は十九歳のままなんですけど……」 八戒の小さな抗議もこの際無視する。 悟空は二人のやり取りを気にせず、遊び相手が出来たことを純粋に喜んでいた。 「行こ、八戒。夜までに帰んなきゃだから、早く出ようぜ」 「あ、え? あの………」 「悟空、引っ張りまわしていじめんなよ?」 「そんなことしねえもん!」 言うべき言葉を何一つ言えないまま、悟浄のからかい声に見送られ、八戒は悟空に手を引っ張られて行ってしまった。 「ったく、相変わらずだな、あのバカ猿ちゃんは」 笑っている悟浄に、三蔵は重々しく口を開く。 「悟浄、八戒のあの変化のことだが」 「ああ、何か分かった?」 笑いながら聞き返す悟浄にイライラしながら、三蔵は言う。 「もしかしたら……」 「あ、犯り過ぎとかは違うぜ? いつもあんなもん」 まぜっかえした悟浄の言葉に、三蔵の眦がつり上がる。 「貴様! 少しは真面目に人の話を……」 「――――聞いてるよ」 三蔵の怒鳴り声を遮ったその声に、常にない緊迫を感じ取り、三蔵は悟浄の顔を見る。 「聞いてる」 さっきまでの言い方とまるで違う声音を出す口元には、貼り付けただけのように見える笑み。 目は決して笑ってなどいなかった。 喩えるなら、静かな激情。 憤り、焦り、不安、そして必死さを押し込めたような瞳。 少なくともこれを見たことで、三蔵の中の悟浄の認識が少なからず変わったほど、真摯な眼差し。 それを認め、三蔵は表情を改める。 「……まだ、確信は持てないが……」 そう言い置いて、三蔵は自分の中の結論を口にする。 部屋の外から、悟空の笑い声が聞こえていた。 |